院長紹介 序章|物語の始まり ― 虚弱な少年が自然の中で見つけた「生」の原風景
── プロローグ ──
はじめまして。院長の安井基喜です。このページに訪れていただいたことに、まず感謝します。
今、悩みがある方も、今は悩みが無い方も、この物語が少しでもあなたの力になれば幸いです。
私のこれまでの人生は、波乱に満ちていました。闘病、挫折、転職、離婚、廃業……。
何度、人生を投げ出したくなったかしれません。
それでも今年(2026年-現在は閉業中ではありますが)で整体院を開業してから27年。
開業当初から整体・エステ・小顔矯正とすべてオリジナルの技術を立て続けに創案し、全国・海外からのご来店、有名芸能人の方々のご来店実績を積み上げてまいりました。
このブログでは、私がこれまで語ってこなかった不思議な体験と奇跡の数々を、生い立ちから現在に至るまで、16章に分けて装飾せず事実だけをお伝えしていきます。
記事にはスピリチュアルな内容も含まれていますが、誤解を恐れて触れないでおくことは真実を隠した作り話になってしまいます。
全てが実話ですが、特定の宗教や思想を広めるためのものでも勧誘でもありませんし、私自身宗教的な団体などには一切所属しておらず、興味もありませんので先にお断りさせていただきます。
但し、私の施術も含め、世の中には科学だけでは解明や説明が出来ない事象や現象が存在します。
これらのことが存在すること自体は自然なことで、人間がすべてを把握しようとすることや、一つの理論や方程式、証明の中に収めよう、収まらないものは否定しようとすること自体が人間の自己中心的な考えなのではないのか?と私は思うのです。
科学や物理、数学の世界でも、それまでの定説、定理、証明が覆ることも有りますし、新発見や、科学の世界観、物理の世界観、数学の世界観そのものを変えなければ説明がつかないこと、仮説や証明が成立しないことなども起こります。
私は民間療法の整体師で国家資格などは持っておりませんが、歴史ある中国医学の世界、西洋医学の世界も、最初から資格制度が確立されていたわけではありません。
私の書くブログ記事が読む人によっては理解しがたい、受け入れがたい内容であることも承知しています。
それでもこれまで敢えて伝えて来なかった真実を書こうと思った理由は、私自身が生まれ変わって新しい整体技術でお客様に光を与える存在になりたいという信念、その新しいメソッドの誕生に繋がる、私の体験や(超)能力の誕生背景を真摯に伝えて理解してもらいたいという濁りの無い気持ちにあります。
私も年齢的に65歳を通過して高齢者の仲間に入りました。
これまで通り、審美小顔矯正=1日3名限定に加え、整体またはメンタルリリースのお客様を1日3名限定としても、施術を提供できるお客様の人数は限られます。
1人でも多くのお客様を呼び込んで利益を出す整体院ではなく、何かのご縁で選ばれた方がお客様となって頂ける、または本当に困っている人、どこへ行っても相談しても解決しなかった方がご来店頂く、限られた人のための整体院でありたいと思います。
いろいろな能力を持つ人の存在をインチキだと否定することも自由です。
私の人生においては、私自身が40年も続き、人生を狂わせた下痢症状が、奇跡的に癒された経験をしています。
また、私の施術によっては、
・病院などの治療を経ても歩けなかった人が数分の施術で歩けるようになった
・40年来の肩こりが解消した
・薬を飲み続けた片頭痛が1回の施術で消えた
・病院へ通っても全く改善しなかったホットフラッシュが数分の施術で消えた
などなど、感謝して報告して下さるお客様の声が届いていることも事実で、私の現在の施術の原点になっています。
このブログ記事はレミスティック整体院院長:安井基喜の65年の記録であり、レミスティックの成り立ちの記録です。
第一章|心と魂を育んだ環境 ― 10歳までの記憶 ―
昭和35年~昭和40年
私は昭和35年、埼玉県飯能市に生まれ、その後、蕨市で育ちました。
昭和35年から昭和40年にかけての時代は、日本が高度経済成長期へと入っていく発展期でした。とはいえ、当時の住宅は木造家屋が中心で、瓦屋根やトタン屋根、土壁や木板、トタン板の外壁が当たり前でした。家々の境界も、今のように塀で区切られていることは少なく、家と家の間には、人がやっと通れるほどの細い隙間が残されていました。
そのわずかな隙間は、私たち子どもにとって、格好の遊び場でした。かくれんぼ、鬼ごっこ、缶蹴り、探検ごっこ…。少しでも通り抜けられる場所があれば、そこは冒険の舞台になったのです。
周囲には、田んぼや畑、ため池、水路(通称ドブ)があちこちにあり、筏に乗ったり、カエルや昆虫を捕まえたり、魚釣りをしたりと、自然と触れ合う遊びがいくらでもできました。子どもたちの遊びは、今では考えられないほど素朴で、豊かなものでした。
私は幼稚園に1年だけ通いましたが、その幼稚園はお寺が運営している園でした。毎朝、お地蔵様に手を合わせてから登園し、園歌にも「お地蔵様に手を合わせ…」という歌詞が入っていました。
今振り返ると、そうした環境の一つひとつが、私の心と魂を少しずつ育ててくれた、かけがえのない土壌だったのだと、心から感謝しています。あの時代の風景は、今でも懐かしく、鮮やかに思い出されます。
虚弱体質だから育った魂
環境には恵まれていましたが、私は幼少期から病弱な子どもでした。
生まれて間もなく、小児ぜんそくで命を落としかけたことがあったそうです。当時としては高価だった注射を、貧しい生活の中で何とか工面して打ってくれたおかげで、命拾いをしたと、母から何度も聞かされました。
「お前にはずいぶんお金がかかったんだよ」
そんな言葉とともに、私は育てられました。
小学生の頃には、小学校のすぐそばに市立病院が有りまして、登校前に病院で診察や治療を受けた足で登校することもちょくちょくあって、風邪をはじめとして、いろいろな病気にすぐ罹って学校を休むことも多かったように記憶しています。
こうした虚弱な体質と、病気がちな生活のためだったからでしょうか、小学校へ上がる以前にも私は一人で過ごす時間が多く、幼稚園も1年しか通いませんでした。
けれども、その一人で過ごす自由気ままな絵本か童話の世界のような毎日が、私という独特な人間が育っていくのには大切な時間で、神様が特別に用意して下さった「揺りかご」だったように思えます。
私の心も体も魂も、あの自然豊かな環境と密につながりながら育ち、太陽の光、風の音、空気の匂い、季節の移ろいを肌に感じ、記憶に焼き付けた幼い頃。
当時、私を包んでいた世界は、今でもはっきりと記憶に残っています。
取り上げられた揺りかご
私にとってはかけがえのない、魂の土地…蕨市。
生まれてから約10年間、私の魂の基盤を形づくってくれた町の記憶は、10年とは思えないほどに色濃く、記憶に深く焼き付いて離れることがありません。
四季、それぞれの記憶。町の隅々の記憶。昭和30年代~40年代の風景と生活。
それは文字通り、私の魂の揺りかごだったに違いありません。
私の成長に必要なものがすべて詰まった魂のふるさとだったのでしょう。
それが、私が小学校4年生の時に、父が、私にとっての祖父の死去に伴い土地を譲り受けたことをきっかけに、蕨市から同じ埼玉県内であっても、70Kmも離れた北西部、群馬県との県境に位置する本庄市へ引っ越すことになってしまいました。
転校には抵抗が無い子や転校慣れしている子も居るでしょうけれど、転校に不向きな子どもも居ます。
私にとっては、転校ということがどういうことなのか、どのような変化が有るのかなど、まだその時点では理解が追い付いていなかったのですが、心や魂にとても大きな傷を負う結果となります。
余談ではありますが、転校を含めた環境の変化を子どもに与える可能性がある場合には、事前にその環境がその子どもに相応しいのか、相応しくないのかを調べてみる必要が有ると感じます。
そのような調査をしている余裕などない、というケースもあるでしょう。
子どもが多いとか、親が離婚したとか、特別な事情を抱えたとか。
そうした場合には、親は子どもの心のケアに気配りをして、子どもの様子を観察してみたり、学校の先生に学校生活の様子を確認してみたりすることは、大切であるということ以前に親の責務だと思うのですね。
異なる環境の変化の中
同じ埼玉県とはいえ、蕨市と本庄市では、気候も風土も、生活様式もまるで違っていました。
言葉遣い、服装、食べ物、人との距離感――。周囲のすべてが変わりました。
小学校の時には、着ている服も朝食に食べるものも、周囲の友達とは異なりました。
私にしてみれば、それまでの蕨での生活の延長であって、周囲の友達と差をつける気も無ければ、生活の基盤は親が作っているので。私にはまったく罪は無いのですが。
「言葉(=方言)」が違う「服装が違う」「食べるものが違う」「呼称が違う」
などなど異なるものばかりです。
まるで外人が転校してきたような扱いでした。
例えば、私が転校してきたころの本庄地域の言葉は群馬弁とも本庄弁とも呼ばれる癖の強い言葉が色濃く残っていたのに対して、私の言葉は東京の標準語に近いものでしたから、地元に育った子供たちの耳には、気取って話しているように聞こえたでしょう。
加えて、服装も(親が選んで買っているのですが)おしゃれな雰囲気で、「女っぽい服装だ」と言われ。朝食について、学校で先生から「今朝は何を食べてきましたか?」という質問に「パンとバナナです」と答えると、周囲がザワつきだし、「パンとバナナだってさ!」と言われてしまう。
おまけに、自分のことをボクとしか言えなかったことに対して、「自分のことを『ボク』だってさ」と言われる始末。。。何かにつけてからかわれる要素が満載の自分は、友達と口論になりやすく、仲間外れにされがちでした。
生まれ育った土地と異なる環境の中で、それぞれの家庭環境、子どもの性格、耐性の違いが、魂や心にプラスにもなり、マイナスにもなることを私は肌で感じて育っていきます。
転校が必ずしもマイナスばかりだとは言いません。
こうした環境に置かれることも運命でもあり、必要な経験だったからこそ実際に起きているのですし、ポジティブな感覚で転校してきて良かったことを書き出すとしたら、転校後の小学高生活2年間の中でも10個くらいは書き出せるでしょうし、その後も含めれば、相当数は書き出せるはずです。
問題は、未成年時期の経験値が少なく、心構えの無い段階での急激な変化には心も体も適応するのが難しいというところにあります。
川に放たれた金魚
この様に、同級生の言葉も服装も違う、生活が違う、気候が違う、町の雰囲気も違う。
違うものだらけの中に置かれた自分ですが、幼児期に多くの同年代、同世代の子どもと交わる経験が無く、周囲の大人も限定した大人の中で、分かりやすく言えば腫れ物に触るように育ってしまっているので、いきなり野生に戻れと言われても孤立しないわけが有りません。
人間の作った飼育環境の中で育てられた野生動物が、成長したからと言って野生に放り出されれば生き延びられる確率が低いように、転向という急激な環境の変化は、ストレス耐性の弱かった私にとって、野生動物の例えよりも過酷な、まるで金魚鉢の中の金魚が突然川に放たれたくらいの環境の変化、ストレスだったに違いありません。
自分では戻りたくて仕方のない元の揺りかごである蕨市に、自分では戻ることも出来ずに、毎日、葛藤を抱えた生活が続く中で、私の心をジワジワと蝕んでいたものがあります。
あとあと分かるのですが、1年後の6年生になった時に東京から転校してきた男の子二人は、すぐに馴染んでいた様子でしたので、馴染めるか馴染めないかの違いは、生い立ちや親、兄弟姉妹の影響の違いだったのだろうと思います。
表面上は馴染んでいるように見えても、心の奥では馴染み切れない違和感と不安を抱え続けた生活に、まだ子どもの私は自分の苦しみを感じることは出来ても、それがストレスだというような言葉の認識もないですし、ケアもされなず、抵抗も出来ないまま、手つかずで5年が過ぎて行きました。
そして、心と魂の限界が来ます。16歳、高校1年生の夏でした。
