院長紹介 安井院長の奇跡の軌跡ー第十章|さらば東京 ― 用意されていた場所へ

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さらば東京・母の死とともに訪れたもの

このように浜松町でも心に残る沢山の出会いと、出来事がありました。
そのどれもが、例えるならば鍾乳洞で鍾乳石から落ちる一滴の雫のような出会いが、やがて「線」となって繋がり、広がって行ったことは。感謝意外の何ものでもありません。

お客様の優しさや思い遣りがどれだけ私を勇気づけ、支えてくれたでしょう。

そして遠くから、時間と労力とお金を使ってご来店いただいた皆様には感謝をしてもし尽せませんし、今でも、すべてのお客様ともう一度お会いしてみたいと思う気持ちで一杯です。

そうした中で訪れた2019年12月。
私の母が他界しました。

私を産み、育て、見守って来てくれた私のすべてを知る偉大な存在であった母親の他界はショックでした。私の大好きだった「蕨市での幼少期時代」の全てを知る証人の他界は、私自身を証しする存在の消失そのもの。

2019年を悲しみの中で年を越した翌月、2020年1月。新年と言ってもまだ母親の死を受け止め切れていない、何か心の中に穴が開いているというか、何かを噛みしめて過ごしているような感覚でいた私は、昼間、浜松町の人気の無い裏道を歩いていました。

その私の耳元で「そろそろ東京を出る準備をしなさい」と聴こえてきます。

このように”耳元で”というのでしょうか、”脳裏で”というのでしょうか、聴こえて来る、または湧いて来る声にもすっかり慣れてしまっていますが、そうは言っても、「自分で思う」のとは全然感覚が異なります。

自分の腕を自分で触る感覚と、他人に腕を触られるの感覚が、同じ感覚でもまったく異なるものであるようなものです。

自分で同じ言葉を思ってみても無理があるというか力づくな感じがするのですが、聴こえて来る(湧いて来る)時は、予期せずに風が吹き込む感じで無理がありません。

ただ、「そろそろ東京を出る準備をしなさい」と言われても、施術途中のお客様も居るのだし、芸能人の皆さんとの繋がりや、個人的にも繋がりのある人たちもあって、そう簡単には行かないよ。と、私はその言葉を他人事のように聞き流すようにして歩いていました。

それから間もなくして、テレビを連日騒がせ始めたのが「新型コロナウイルス」です。
「日本人第一号」というニュース、大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の船内での集団感染などなど。

瞬く間にテレビが「新型コロナウイルス」一色になり、賑やかだった浜松町の街も嘘のように人が消え、本来であれば帰宅時間で混雑する山手線の列車のどの車両もガラガラの状態となってました。

やがてパンデミックという聞きなれない言葉が流れ、外出や国内外の移動も自粛や制限がされるようになって行き、私に聴こえてきた声が私は導く言葉に従って東京を出ることにしたのでした。

東京を離れて開業の地、本庄市へ

全国がコロナの猛威、脅威に脅かされている中で、東京を出た後の私の行く先は、スタートの地である埼玉県本庄市に以外には有りませんでした。

本庄市に戻るにあたり、地元の開業を考えて新幹線駅・本庄早稲田駅にも近い場所にテナントを見つけ、資金調達、テナントの契約、内装設計、内装工事などなど、開店準備に精を出しました。

新店舗では私の次男が鍼灸師の資格を持っていたので鍼灸院を併設とし、鍼灸院の名称はヘブライ語の「愛」を意味する「あはば」と名づけました。

東京から比べたら田舎とも言える本庄市ですが、新型コロナウイルスの猛威に人々はピリピリしていて、スーパーに買い物に行くとマスクを着用せずに入店した外国人に怒る人も居たり、どこへ行っても、マスク+アルコール消毒+検温がついて回った時期でした。

このような状況下で、私の整体院レミスティックと息子の鍼灸院あはばが、2020年11月に開業となりました。私にとってのこの時期の開業は、当時はコロナ事情もあってやむを得ない中でしたし、非常事態と言うことで落ち着いて考えている余裕は無かったのですけれども、今から考えると相当な無理があったと思います。

私自身が東京の感覚が染み着いたまま、いろいろなものに対して東京とのギャップを感じる中で、集客営業として打つ手も見つからないまま、レミスティックは集客が減る一方となって行きました。

私の脳裏では、《東京を出なさい》という声に従ったのだから、必ず次の一手、次の道は必ず準備されているハズだ、準備されていなければならない、と見えない相手に責任を求める気持ちがふつふつと湧いていました。

偶然とは思えない出来事の数々

そうしている中で母親が他界して1年が過ぎた、2020年12月19日。

当日は、私が当時所属していたキリスト教団体のクリスマス集会の日に当たっていました。
私は、息子と二人で埼玉県の所沢市で開かれた集会に参加しました。クリスマス集会には、私の命の恩人とも呼べるⅯさんも出席されていました。

Ⅿさんは昭和6年(1931年)生まれですから、当時89歳になっていらしてました。

会場でお会いしたⅯさんは、朝起きてから脚の付け根が痛むと言って、歩くのも大変そうでした。脚の痛みを堪えて気丈に集会に出席したⅯさんでしたが、集会が終わった段階では立ち上がることも出来なくなっていましたので、私たち親子で集会場所であった2階から階段を使ってⅯさんを抱える様にして降ろしたものでした。

「これは骨折しているから病院へ連れて行こう」息子と私の意見は一致していて、病院嫌いなⅯさんを説得し、日曜日の救急外来扱いで、Ⅿさんの自宅がある埼玉県入間市内の整形外科へ自家用車で搬送して受診しました。

取り急ぎ、レントゲン撮影をしましたが日曜日で専門医の判断がもらえないため、正式な診断は翌日となって一旦は自宅に戻ることにして、翌日も私が病院へ付き添って医師から「大腿骨転子部骨折」と診断を告げられ、手術を渋るⅯさんを説得して手術入院となりました。

Ⅿさんの戸籍上には直接の血縁の無い家族(孫)が遠くお嫁に行っているので、私がⅯさんの身元引受人となって、Mさんが無事に自宅生活に戻れるまでのサポートを無償で請け負うことにしました。

私の自宅からⅯさんのお宅までは距離にして70Kmを超え、年金生活のⅯさんに費用を請求出来る状況ではなかったので、高速道路の使用は極力避けて一般道を利用してせっせと通ったものです。

命の救い

手術後の経過を見てリハビリ病院へ転院し、リハビリ入院生活も終わって自宅に戻れるまでになったのが2021年の春先でした。

それから、更に季節が過ぎて2021年の秋になった時に、普段Mさんの身の回りの世話をしている教会仲間の女性から私に電話が入って、Mさんが脳梗塞になったようなのだけれど市内の病院で診察を受けたら漢方薬を出されただけで帰宅して様子を見ていると言うのです。

私は電話の様子からは緊急性が無いのだろうと、翌日の午後に行くつもりで電話を切りました。ところが、私が就寝時間になってベッドに入って眠ろうとしても胸騒ぎがして眠れません。

翌日の午前中には、整体のお客様の予約が入っていたので、早く眠りたいのですが胸騒ぎは収まらないままでした。過去に胸騒ぎが起きて眠れなかったのは東日本大震災の時で、それ以来には無かったのに(また地震かな?)と考えていると、《朝一番でⅯさんの家に行きなさい》と聴こえてきました。

私は、脳梗塞の状態が思わしくないと感じて、翌朝の予定を急遽ずらして、朝一番でⅯさんの自宅へ向かいました。

Ⅿさんの自宅に上って、Ⅿさんを一目見るだけで、顔つき、ろれつの周らなさから緊急性を感じた私は、すぐに最寄りの脳外科を検索して連絡を取りⅯさんを連れて受診に向かいました。

昨夜の胸騒ぎの件も不思議なお話ですが、受診の診断、脳梗塞と診断されて緊急入院を医師から告げられて「半日遅れていたらもう遅かった状態」という説明を受けていた時に、医師を囲むようにして立っていた看護師さんの携帯電話が鳴りました。

看護師さんが医師に告げた電話の内容は、入院希望患者が居るのでベッドが空いていないかどうかという確認でした。

医師は、ぼくのところはこの人(Ⅿさん)で終わり!他に空いていないの?といったやり取りでした。Ⅿさんで病床が塞がったと話しているのを聞いて、Ⅿさんの受診時点でその病院の空き病床はたった一つであり、病状からも、病床の空き状態からも、受診が午後では間に合わなかった…

不思議をいくつも体験している私でも、この顛末には言葉がありませんでした。

自分の仕事は棚に上げても

その後、数か月の入院生活も終わりを迎えましたが、脳梗塞の後遺症で歩行が厳しい状態になっていたⅯさんが自宅生活に戻るのには、自宅が車椅子生活には適さない造りだったことから難しいと判断され、老人施設へ入所する運びになったことで、それまでの生活で繋がりのあったケアマネージャーとの打ち合わせの必要などが出てきました。

そうした渉外交渉や手続きなどを代われる人が居ないことから、引き続き私がその後の一切の手続きを行うことになり、私は生活の糧である整体業をしている時間も心身の余裕も亡くなってしまい、生活費などを心配する私の脳裏に浮かんだのは《仕事のことは考えるな》の一言でした。

これまでのブログ記事を読まれた方でも、どうして頭に浮かんだイメージ、言葉、感覚を信じられるのか?そういう幻聴が聴こえるのは精神的な病気ではないのか?

そう思われる方も多いのではないでしょうか?それは至極当然のことで、この私自身も、そんな言葉や感覚が自分が創り出したものだったらどうするのか?と、これまでも何度も自問自答しました。

その度に、あの言葉も、あの事も、そしてまた、あの言葉も現実になった。と、私が聴こえたものと信じ、その通りに行動したものにハズレや失敗は無かったことを思い出すのです。

ですから《仕事のことは考えるな》と頭に浮かんだ時も、受け入れて目の前に与えられたことをやり遂げることしか無かったですし、それに抗って他のことを選択しても失敗して、ただ遠回りをして損をする自分がそこに居るだけだと思ったのです。

最後の仕上げはあなた

そうこうしてあれやこれやと、Ⅿさんの身の回りのことを一つずつ片付けて、いよいよ入所先の老人介護施設も決まり、契約も済ませ、後は入所だけという段階に来ました。

前述のとおり、Ⅿさんには私よりもずっと古くからⅯさんをお世話していた女性が居て、その女性も最初のうちは私の行動がⅯさんを救ったと感謝してくれ、諸々の煩雑な手続きや交渉を代わってしてもらえて助かる、と言ってくれたのですが、入所先の施設が決まった頃には「安井さんが皆一人で決めてしまって、私たちは蚊帳の外」だと不満を漏らすのでした。

この言葉を聞いた時は、それまでの疲れが一度に出た感じがして、(何が、仕事のことは考えるな、だ。大変な思いをして報われないなんて馬鹿馬鹿しい!)と思い、この女性に引継いだら、私はもうⅯさんという荷物は背中から降ろして楽になるんだ!と気持ちを固めました。

そしていよいよ、介護施設にⅯさんを引き渡す当日、Ⅿさんは私に向かって静かに言うのです。

「私の人生の仕上げはあなたね」「私の仕上げは安井さんだからね」と。

私はその真意をⅯさんにその場で尋ねましたが、Mさんは「その言葉のとおりよ」としか言いませんでした。

再び回って来たお鉢

それから半年ほどして、Ⅿさんは諸事情によって同じ入間市内の病院と併設んの施設に移るのですが、移った先の施設で生活を始めて間もなく、居室のトイレの往復の際に転倒して前回の骨折とは異なる右足の大腿骨の転子部を骨折してしまい、その介護施設から直接、整形外科病院へ入院することになってしまいます。

この時に、どういう成り行きなのかその施設に入所した時の身元引受人が私になっていたこと、前回の骨折で手続きに慣れていることから、再び入院先の病院の手続きなどのお鉢が私に周って来た形になってしまいました。

私が、Ⅿさんの面倒を見ること、お世話をすることが、自分の生活や仕事に影響して大変だとか、お金の問題が出て来るだとか、そういう私の事情はまったく無視するかのように聴こえてくる言葉は「仕事のことは考えるな」…です。

なんとも無責任な言葉ですが、すべては聴こえて来るままにしかならないの、それは私の人生で経験済みです。とにかく目の前にあることを感謝してやり過ごすしかありません。

戸籍上の関係よりも

Ⅿさんの治療も終わり、リハビリの段階に入って専門病院へ転院となります。ここでも衣類の交換、クリーニングなどの一切を私が引き受ける形となって数か月が経過して、いよいよリハビリも終わりが見えてきて施設に戻る時期が来ます。

私は骨折をした施設の管理体制や対応には少なからず不信感を抱いていましたので、元の施設へ再入所することには反対でしたが、Ⅿさんには血の繋がりのない孫娘が居て、それまでは遠方に住居を置いていたのですがご主人の転勤でⅯさんの住所地近くに越して来たことから、この孫娘がⅯさんを引き取って元に施設に戻したいと申し出て来ていました。

この孫娘も何故か私を快く思っておらず、私との関係を良好に築こうとしないこともあり、施設に閉じ込めないで自然との触れ合いを持たせたいという私と、施設に戻したいという彼女との間で平行線のままで話し合いが出来ませんでした。

法的な観点から私は第三者ですので、病院側へは、退院を機に孫娘にⅯさんを引き渡すことで構わないと伝えたのですが、病院側からは「Ⅿさん本人は安井さんの所へ行きたがっているので、頑張って欲しい」と頼まれてしまいました。

結果的に、私と孫娘、病院、Ⅿさんの四者面談の場を設けて、Ⅿさんの気持ちを最優先とする方向で、私が身元引受人となることで決定したことから、Ⅿさんは私の居住地近くの特別養護老人ホームへ通所としての入所が決まりました。

この特別養護老人ホームは、Ⅿさんがとても心に掛けていた人が数年前に入所していた経緯があり、その方を見舞ってⅯさんと一緒にこの施設を訪ねたこともありました。その時に既に下見が出来ていたので、お部屋の感じやスタッフさんの感じがとても良かった印象があり、私は迷うことなくⅯさんの入所先をこの施設に決めたのでした。

入所契約も結ばれて、Ⅿさんのお部屋となる部屋を案内されたのが1階の大きな掃き出し窓のあるお部屋で、まるで庭と地続きのような解放感と、ちょっとした庭や外の景色が見える、自然が大好きなⅯさんに用意されていたような広いお部屋で驚きました。完全入所ではないので病院への通院など、こちらの負担もありますが、外出が自由ですので季節ごとの花を見せに連れて行くことも出来、あれから3年以上が経過する現在、Ⅿさんが施設の生活、私との関係が幸せで天国に居るようだと聞くと本当に良かったと思います。

霊的な繋がりの中で

実はⅯさんは、いろいろな事が視える(感じる)方で、宗教的な指導者としても、個人としても尊敬されていて、全国に信奉者や相談希望者が居ながらも、誰にでも会う時間を取る様な事はされず、常にその時に必要な人と必要な時間を祈りながら過ごしている方でした。

そのような方が、私のような何者でもない人間を「最後の仕上げをする存在」として選んで下さったのは、私自身の外見ではなく、私も知らない私の内側の魂の実体を見ているからだとご本人も話されていますが、何にしても私には光栄なお話です。

私は思うのです。私が何もかも失ったとしても、Ⅿさんに最後に認められ、Ⅿさんの身元引受人としてお世話をさせてもらい、私と会話する時間を幸せと感じて貰えたことは、求めても手に入らない財産であり、私の人生がこの為にだけ在ったとしても過言ではないと。

Ⅿさんがまだまだ元気の頃に、Ⅿさんのお宅に寄って話をしているとⅯさんは「あなたは不思議な人よね」と何度も口にしたものでした。その時にⅯさんが感じていた私、Ⅿさんが見ていた私は、恐らく今も変わらないのでしょうけれど自分では分からないのが残念です。

人間関係の中にも、人間の生活の中で生まれる人間関係を超越した、生命誕生以前の時空を超えての霊の繋がりというものも存在するのかも知れませんし、それがナンセンスな考えだと否定することも出来ないのではないかと思います。

特に、私の出会った人々は霊的な意味で特別な人が多く、私に少なからず影響を与えた人たちばかりですので、信じる、信じないというレベルでなく、私の生活の線上の出会いという現象そのものでした。

もしⅯさんが天界に帰られたら、また新しい出会いが私を待っているのでしょう。そうでなければ、この霊の世界は続いては行かないのですから。

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