院長紹介 安井院長の奇跡の軌跡―第八章|信じるということ ― 魂の繋がりと神との繋がり
信じることの難しさと大切さ
ペンテコステの参加
不思議な導き、不思議な出会い、不思議なご縁で、長野県S氏にお住いのT氏の元へ、またS市で開かれていたクリスチャンの集会に通いだしてから半年以上が過ぎた6月に、そのクリスチャンの仲間によって”ペンテコステ”というキリストの集会が群馬県で行われました。
その頃には、そのクリスチャンの群馬支部の様な所にも知り合いも生まれておりまして、T氏からも、群馬の仲間たちからも”ペンテコステは神様の臨在する特別な場”だからと参加を勧められました。
仲間たちの熱い誘いとは違って、私はそれまでの半年以上、何の変化も無いまま時間が過ぎてしまっていることに気力が失せかけていましたし、神様に対しての期待も薄れて来ていたこともあって、心の中では(キリストが助けに来てくれないならばこっちから会いに行くしかない)と殉教のような精神で集会に参加したのでした。
T氏が妹さんに誘われ、渋々出席したキリストの団体の花見の席において、いきなり奇跡的な体験をしたことに比べ、自分が時間ばかり費やしても何の変化も得られないでいること、つまり他人と自分との比較ばかりに気が取られて、周りが羨ましくて仕方ない自分が居ました。
“ペンテコステ”の当日、イベント(集会)そのものは半日ほどの予定で、賛美歌を歌い、お祈りをして、参加者の奇跡的な体験談や、神様への賛美を聞き、途中途中で、賛美歌を歌い、イスラエルソングを歌いながら、私自身には特別なことが起きることも無く集会はエンディングを迎えてしまいました。
ただ、集会の最後にイスラエルソングを全員で歌った時、私の胸中は「神様!助けて下さい!」という魂の叫びで泣き濡れていた感じでした。
「信じる」—この言葉は短くて重い言葉ですね。
信じる時の信じ方も、時と場合、人によって違いがあって、決まりや定義が有るわけでなく計測することが難しい言葉の一つですね。
この場合、神様の存在を信じるとはどういうことなのでしょう?
神様なんているわけがない、と存在しないことを信じている人も居ることでしょう。
いや、絶対に神様は存在する!と固く信じている人も居ることでしょう。
何事においてもそうだと私は思うのですが、その人が信じる方向へ物事は進んで行きます。
信じなければ信じないなりに、信じれば信じるなりに。
神様でなくても人間関係でも同じことが言えるでしょうし、同じことが起きるのが「信じること」「信じないこと」のエネルギーではないでしょうか。
私の場合、どちらなのかというと「疑いつつ信じる」タイプですね。
ちょうど子どもが、おもちゃなどを買ってもらえなくて駄々をこねて泣きながら親の後をついて行く感じでしょうか。泣かずには歩けない面倒くさいタイプだとも言えます(笑)
ですから、この集会への参加も半信半疑、集会の最初から最後まで半信半疑でしたから、
きっと神様も途中まで降りて来て、私の様子を見ていたような気がするのです。
Ⅿさんと運命の出会い
ペンテコステ集会が終わって、私は顔見知りの男性参加者二人に「珈琲でも飲んで帰ろうよ」と誘われました。
行った先は会場からほど近いファミリーレストランで、その時に一人の初老の女性「M」さんを紹介されました。昭和6年生まれなので、当時は80歳ほどだったはずです。
珈琲を飲みながら、男性二人に促される形で、私はこれまでの経緯と現状を話しました。
いろいろな事が有って、事業にとん挫して、精神的にも追い詰められている…その話をしている時の自分は、自分でも話すことにうんざりしていました。
その話の流れの中で、私を誘った男性二人は「もう自己破産しちゃってさ、やり直すのが良いのでは?」と、決してネガティブに話しているのではなく、これまでの人生はこれまでの人生として、ここで区切りをつけて神様の前に新しい人生をスタートさせるのが負担も無く、白紙スタートで良いのでは?と、信仰者的なアドバイスをして下さったのです。
男性二人の話が一致して、お互いに「それが良いよね」と相槌をうちながら、それまで黙って男性二人の横に座って話を聞いていたMさんに向けて、「Mさんはどう思います?」と意見を求めました。
Mさんはすぐには言葉を発することなく、ただ私の目をじっと見つめていたかと思うと、静かに切り出して短くこう語るのです。
「私はね、このお二人の意見とは違うのだけど、あなたがキリストに真剣に求めなさるなら、あなたは大丈夫ね」と。
このMさんの言葉は相当に重いものがあったのか、またはMさんに反対意見を述べられる関係性でなかったのか、異なる意見を出された男性二人は異論を唱えることなく、最後は神様に従うことが最善だという流れで、その席は1時間ほどでお開きになりました。
私は、このMさんの言葉の真意をどうしても聞き出したくてしかたがなくなりました。
神様が助けに現れなければ、死んで命を神様に預けて直談判をしに行こう!と思っていたのですから、「あなたは大丈夫」と太鼓判を押されれば、嬉しいような、信じたいような、信じられないような、それこそ半信半疑な気持ちで、その真意が閉じ込められている箱を開かずにはいられない気持ちでした。
私は帰宅してから、お礼かたがた予め伺っていたMさんのお宅へ電話を入れ、再会を希望してご自宅を訪問する約束を取り付けたのでした。
魂に火が灯る時
Mさんのお宅の茶の間に上げて頂いた私は、開口一番に、「なぜ昨日、Mさんは『あなたは大丈夫』と言ってくれたのですか?」と質問しました。
その私の問い掛けに、お茶を入れるために歩き出しながら「私はそのようなことを言った?」「私は覚えがないからキリストがそう言って下さったのね」と、何事も無さそうに軽い感じで言うのです。
茶の間に戻ったMさんは、「お話は昨日たくさんしたから、今日は祈りましょう」と言われました。
私はそれ以上は質問をすることも出来ず、メノラーと呼ぶロウソク立てが置かれた床の間の前に座り、ロウソクに明かりを灯して二人でお祈りをしました。
短い祈りを終えて、「お茶にしましょう」とMさんに促されて立ち上がろうとした時、私は何かに力を抜かれたように、また、同時に何かが体の中に入り込んで来た感覚を受け、畳の上に横たわってしまいました。
そしてその場で私の口からは、『我、炎となって汝の中に息づく。汝の魂を預かる。』という言葉が3度溢れ出ててきました。
一体、誰が私の中で言葉を発したのか、誰の言葉だったのかは分かりません。
ただ、自分で行った言葉ではないことだけは確かでした。
Ⅿさんは、その私の状態を見て「低級な霊が憑(つ)いて言わせたのではないから安心して」「あなたの顔をずっと見ていたけれど、聖霊でないとあのような穏やかな顔にはなれない」と言われました。
また、「『炎』というのは『愛』のことだからね、あなたの中にキリストの愛が入りなさるね」と教えて下さいました。
生きながらに生まれ変わる
当時、私は仏教にはなんとなく関心のある程度で、クリスチャンの集会に足繫く通いはしましたが、いわゆる洗礼というような儀式を受けたわけでもなく、クリスチャンになったのか、クリスチャンになっていないのか明確でないままで、それは現在でも変わりません。
洗礼というのは実際には人が人にするものではなく、神の霊が人に施すものと考える方が理に適っていますから、私がMさんのお宅で体験した聖霊体験が洗礼だと素直に受け取るべきなのかもしれません。
聖書には、イエスキリストの弟子たちが似たような体験をする場面が描かれていまして、そうした聖霊体験の中で新しい命を宿すことを「コンバージョン(回心)」と呼ぶらしいのですが、生きながらにして聖霊の力によって人生が変えられていくことを聖書の中において、キリスト自身が語っています。
ヨハネによる福音書第三章:イエスは答えて言われた。「よくよくあなたに言っておく。誰でも(水と霊によって)新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」
私は熱心なクリスチャンになったわけでもないですし、現在、どこかの教会に通っていたり、団体に所属しているわけでもありません。
これまでお伝えしてきたとおり、私自身が導かれるままに体験したこと、私の体で学んだことを包み隠さずにそのままをお伝えしています。
私はクリスチャンであるとか宗教家であるとかの以前に整体師であります。
牧師として人々の悩みを聞くのと同列には出来ませんが、整体師としてお客様の悩みを聞いて寄り添い、解決への道をアドバイスする立場にあります。
そこで、整体院の中で整体師としては言わないアドバイスを、このブログ記事の中で特別にお話ししたいと思います。
先ず、どのような困難な悩みに対しても
・ 絶対に諦めないこと
・ 如何なる手を尽くしても駄目だったと落ち込まないこと
・ 人間の知恵や知識に頼らずに目に見えないものを信じること
・ 一番大切なことは、素直に、子どものように無垢な気持ちで生きること
この4つです。
私は気休めや、可能性の話をしているのではありませんが、容姿や体形のお話をしているのでもありません。
私の考えは、容姿や体形でお悩みの方は「外見的に美しくなる変化」ではなく「内面から引き出す変化」をされることが大切だと思っています。
なぜならば、外見的に美しくなることの希望(欲望)は渇きとなります(渇望)。
例えるならば、塩水を飲んで喉の渇きを覚えて、更に塩水を飲んで潤そうとするようなもので、際限が有りません。美容整形を繰り返してしまう人に見られる現象の一つですね。
「美」というものは、外から他人に与えられるものではなく「内側から自分で生み出すもの」です。
(私は生まれながらにして醜い)と思う心が「美」とは離れてしまっていますので、そのまま「美」を追いかけても、追いかけても、「美」には辿り着くことが有りません。
世の中に「美女」と称される女性はきっと何万人、何十万人、何百万人と居ることでしょう。
では、その中で心も美しく、優しく、どこまでも他人に優しい「美人」は何人いるのでしょうか?
ある時は美しく優しい、けれども相手を嫌いになったらどこまでも冷たい…
それでは本当の「美人」ではありません。
本当の祈りから生まれる水路
「美」についてのお話はそこまでとして、先に挙げた4つの真理についてお話しますと、ご自身や家族や知人が、病気で悩んでいる、お金のことで困っている、仕事のことで行き詰っている…などで、どうにも先行きが怪しい、解決策が無い、選択する方向性や進路が見つからない。
そのような時には、自分自身で「絶対に大丈夫になる!」と強く信じるところに水路が生まれます。その水路に説明のつかない命の水が流れることでどん底から復活する転機が訪れます。
半年や1年ほど張って結果が出なかったとしても、見えない所で何かが動いていると信じて諦めてはいけません。
私自身がそうであったように、またそうであるように。
今日、世界でい一番幸せな人間だと感じていても。
今日、世界で一番の不幸な人間だと感じていても。
明日はわかりません。数時間先もわかりません。
一番幸せであっても、一番不幸であっても、立場は同じです。
次の瞬間をどのように迎えるか、どのように生きて行くか。
そこに「信じる」という気持ち。
ホンモノを本当に信じるという気持ち。
それが人生の分かれ目になります。
レミスティックでは、当店のお客様であれば、単に整体、小顔矯正、エステ、メンタルケアの部門、施術に無い、日常生活の問題や相談にも乗らせて頂いています。
本当に困っている方は、祈ることも大切です。
これは宗教のお誘いではありません。
祈ることにお金は必要なく、宗教に関係なく、たった一人で出来ることです。
祈るということは、自分自身の内側へ向けたエネルギーの発信でもあり、
祈るということは、自分を包む外側へ向けたエネルギーの発信でもあります。
エネルギーは力ですから、祈りのある所には力が生まれるというお話です。
ご自身が無垢であって、「見えない水路が私にも出来て欲しい」「命の水が流れて欲しい」と心の底から願うのであれば、必ず水路が生まれ、命の水が流れ、光が差します。

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