院長紹介 安井院長の奇跡の軌跡ー第二章|16歳からの試練ー過敏性腸症候群発症

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第二章|心と体が揺れた日々 ― 16歳からの試練 ―

奇跡の軌跡 ― 波乱の幕開け

それは、あまりにも突然やってきました。

めでたく高校へ進学し、高校生活最初の夏。
友人と語り合い、夏休みを心待ちにし、海へ、山へと夢を膨らませる――そんな、ごく普通の高校生らしい季節でした。

私は友人と二人、高校一年の夏休みを利用して、二泊三日で佐渡島へ海水浴に出かけることになりました。
宿を取ったのは、佐渡島の西端に位置する「鷲崎(わしさき)」という、観光客も少ない静かな海辺でした。

まるで貸し切りのような海水浴場で、思う存分に夏を満喫し、地元の人たちとも親しくなり、別れ際には温かく見送られる――。

絵に描いたような、ドラマのワンシーンのような旅でした。

しかし、帰宅後、私を待っていたのは、楽しい思い出の続きではありませんでした。

突然の発症

帰宅して間もなく、突然、激しい下痢に襲われました。

トイレに行っても、行っても止まらない。
吐き気もなく、腹痛もありません。

「佐渡で水にでもあたったのだろうか」

そう思い、胃腸薬や下痢止め薬を飲んでも、まったく改善しません。

数日後、病院で検査を受け、「過敏性大腸炎」と診断され、薬を処方されました。
しかし症状は悪化する一方で、毎日1キロずつ体重が落ちて行き、
当時、身長173センチ、62キロあった体重が10日間で52キロまで落ちてしまいました。

そうなると体力も落ちて、体温を維持することも難しい状態になり、
真夏にもかかわらず、カーディガンを着ていなければ体温を保てないほど衰弱し、
ついには入院することになります。

新学期が始まっても登校できず、秋近くになってようやく通学を再開しましたが、
いつ爆発するかわからない爆弾を抱えて生きるような毎日が始まりました。

この時はまだ、これが40年以上続く苦難の始まりになるとは、夢にも思っていませんでした。

崩れていく進路と自信

この病をきっかけに、希望していた大学進学や将来設計は、次々と断たれていきました。
元々、正義感の強かった私は、警察官や消防士になりたいと思っていました。
そうでなければ電気系の専門大学に進むことも考えていたのですが、

日中は元気にいても夕方や夜には体調が崩れる。
夜は平気でも、朝には動けない。
朝が良くても、昼にはお腹を下して寝込む。

登山部だった部活も退部し、授業の欠席も多く学業も手につかない、
友達関係も薄れ、嫌でも学校生活は荒(すさ)んで行く一方で、
(もうどうでもいい、どうにでもなれ)と自棄(やけ)になっていました。

まさに、破滅的な人生の幕開けでした。

操縦不能の人生

こうして、受験に合格して気持ちも晴れて楽しいだけの高校生活は、
スタート序盤で文字通り暗雲垂れ込める高校生活へと変わっていきます。

まずまず元気に登校しても授業中に突然トイレへ駆け込み、早退するか、
通学途中で気分が悪くなって引き返してしまうか、
発症から1年くらいは、「明日もこの状態だったら、首を吊ろう」
そう考えたことが、一度や二度ではありませんでした。

高校2年生になる頃には、下痢症であることは変わらないまでも、
なんとか通学や日常生活は送れるようになり、
オートバイの中型二輪の免許を取得して遊びまわることも覚え、
発症当時は恐怖でしかなかった夜の訪れが楽しみになり、
夜通しバイクを乗り回したり、友達と遊んだりと、
進路を諦めた分の気持ちの発散を「青春」の二文字にぶつけながら、
それでも何とか卒業はできました。

しかし問題はそれからでした。

就職というのは学校生活のように自由でも甘いものでもありません。
就職を機に体調が安定するはずもなく、欠勤、遅刻、早退のオンパレード。
就職というストレスは、下痢症状を悪化させるにはもってこいでした。

私に張られたのは、
「若いのにやる気のない社員」
「口だけ達者な生意気な小僧」
お世辞にも褒められる部分などどこを探してもありません。

当時は、「根気・根性・やる気」「スパルタ」「特訓」と体育会系の風潮。
男は強くたくましく、酒は飲めて当たり前、二日酔いは勲章、
残業してこそ社員!『24時間戦えますか?』と栄養ドリンクのCMがハッパを掛ける。

そんな風潮社会に、下痢ばかりの私が馴染めるはずもなく、
どれだけ努力しても、操縦不能の機体は迷走するしかなかったのです。

結婚とさらなる迷走

やがて、その迷走は暴走を伴うようになります。

若くして結婚したのも、「安心」が欲しかったからだったのかもしれません。

しかし、結婚後も病は容赦なく私を蝕み続けました。
私生活でも仕事でも、感情と体調の乱高下は止まりません。

当然ながら、結婚した以上は収入や職業の安定は必須となりますが、
前述のように会社内での評価は悪化するばかりです。
「結婚しているのに」「子どもが生まれたのに」

そういう同僚、先輩の言葉に歯向かうか、ふてくされての退職。
18年間の結婚生活の中で、私は何度転職を繰り返したでしょうか。
酒の代わりに異性で発散し、趣味に逃れ…
社員にも夫にも父親にもなれないという苦しみの毎日でした。

今の医療であれば「病気を起因としたPTSD」として、
心因的な治療の道も見出せたのかもしれません。

こうして、二人の子どもに恵まれながらも、荒れ続ける私に、
私自身も、妻も疲れ果ててしまいます。
そして、ついに子どもたちを私のもとに残して妻は失踪。
その後、しばらく身を潜めていた妻は調停離婚を提出。

私に残された病気で荒れるに任せた生活のツケは、
身体的にも精神的にも、安定とはほど遠い状態で、
二人の子どもを養う責任だけを背負う形で回って来たのでした。

運命の道へ

私に残された生活のツケは、身体的にも精神的にも安定とはほど遠い状態で、二人の子どもを養う責任だけを背負う形で回って来たのでした。
そして気づけば、私の前には一本の道だけが残されていました。
その道がどこへ続くのか、その時の私には知る由もありませんでした。

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