院長紹介 奇跡の軌跡ー第三章|整体との出会い ― 用意されていた「藁(わら)」

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用意されていた藁(わら)

導かれるままに

人生を生きていく中で、良いことも、悪いことも、どこに何が待ち受けているのか、誰しも未来を先取りすることは出来ません。

この世には偶然というものはなく、人生の上に引かれている見えない線路のように、運命が繋がっているのではないかと思いたくなる出来事があるものです。

離婚の前に自営業を勧められていたことも、整体師を紹介されていたことも、その時点ではばらばらに見えた出来事でした。しかし離婚後、私が迷わず整体師の道へ踏み出せたのは、それらが見えない線路としてすでに繋がっていたからではないかと今は思います。

心境としては、川や海に落ちて溺れかけた人間が掴む、最後の「藁(わら)」のようなものでした。が、その藁は人生の点と線の上に予め用意されていたものだったとしか思えないのです。

なぜ藁は掴めたのか

世の中で言うところの”引き寄せの法則”など、自分のチャンスを掴むためのノウハウは、書籍やYouTubeなどで様々、紹介されています。

チャンスなどを掴むための個人的な日々の努力、意識の持ち方、人々との交流など多岐に渡って誰でもがチャンスを掴めるようにアドバイスされています。

私の場合はどうだったのでしょうか?
その当時は、まだ引き寄せの法則というノウハウは知られていなかったですし、YouTubeも無い時代でした。

振り返ってみると、そこには対人関係が苦手で、一般的な社会人として人間関係が上手く構築できずに、思いとは裏腹に仕事を続けられなくなってしまう”困った自分”が居て、家を建てたばかりで住宅ローンも重くのしかかっている状況でした。

ただ、そこで相談する人が居て、「お前は自営業がいいよ」と言ってくれて、素直にその言葉に従って右往左往した結果、整体の話が浮上した。という流れを考えると、一番は「素直である」ことが大事な要素ではないかと考えるのです。

その後も、すぐには芽が出ることもなく下積み時代が続きますが、すぐに投げ出さないでいられたのも、人の意見を聞いたり、人に頭を下げたり、という素直さが運命好転のベースになっていることは間違いありません。

人生に躓いて人生が嫌になる、親や友人や恋人や上司とのトラブルで嫌気がさす。
その他、どのような困難や試練の中でも、役に立つのは「素直さ」でしょう。
素直に人の意見を聞く、素直に謝る、素直に行動に移す。
聖書の中でも、「幼子のような」人物であることを善しとしています。

素直であることや無邪気であることは美徳であると言えるでしょう。

運命の道、運命の糸

有名人の逸話として、「あの時、あのことがなければ今の私は居なかった」という話はたくさんあります。 大学を落ちた、電車に乗り遅れた、会社が倒産したなどを機に道が拓ける。

私も整体師になりたい、人を癒す仕事がしたいということは、整体の道に入るまでは一度も考えたこともなく、 ただ、仕方なく自分の前に見える道を歩くよりは他に無かったのです。

それどころか、(自分の行いは棚上げした状態で)不運続きのようにさえ思える自分の人生、毎日の中で、贅沢に自分の歩く道を選択する余裕もなく、余裕が無いから恵まれた環境に身を置くことも容易では無かったわけですが。。。

さて、いよいよ紹介された「K」氏の運営する整体院に併設された整体学校へ、自宅の在る埼玉の西の端から、東京・深川まで、電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、片道約2時間かけて通う毎日が始まりました。

現在は、「K」整体院は深川から移転してしまって、現在は別のテナントが入っていますが、テナントとマンションが一体となる複合住宅の佇まいと周囲の風景は今も変わっていません。

私の通った整体学校は「東洋医学〇〇学院」という名前でしたが、「K」院長が施術の合間に生徒を指導していて、当時の生徒は私を含めて5~7名。学院というよりは個人塾という体裁で、 授業といっても机上の勉強は無く、もっぱら実技を繰り返すだけでした。

当時の私は、≪早く独立して食べていく≫ことが最大目標だったので、私にとってはマンツーマン形式の、なんとも適当で雑に感じたシステムが、逆に功を奏する形になりました。

こういう点でも、与えられた場所に不平不満を感じずに受け入れて行く素直さが大事で、「自分の身を置くならば、なるべく良い環境でなければ駄目だ」などと考えているとチャンスは遠のいてしまうのかも知れません。

その時点では、決して望む環境では無かったとしても、振り返ってみた時にはその環境が良かったという場合もあります。

私の場合も、大規模な学校なら埋もれてしまったかもしれない私が、院長の直接指導、少人数で練習時間が多い、院長の施術も間近で見られる、という贅沢な条件に、私の中の幼少期に自然の中で育まれた五感、そこから派生した、第六感のような感覚が発酵し醸(かも)されていきます。

天才が現れる???

私は、K氏の元に通い始めてすぐに、院長から教えられた技術を頭で理解するのではなく、感覚で受け取って覚えました。
何故かというと、用意されていた教材呼ぶのには程遠い、白黒コピーをホチキス止めした内容の薄いテキストでは机上の学習が出来るはずもなく、K氏の性格からも物事を順序だてて丁寧に教えることが苦手で、K氏の施術を見よう見まねで覚えるか、K氏から受けた施術の感覚を頼りに再現を試みて覚えるか、昔の職人が仕事を教えるような、先生と生徒ではなく師弟関係のような現場だったので、感覚で覚えて行くより他に無かったのです。

私は学校の勉強というものが余り好きではなく、毎日を遊んで過ごすことしか頭に無かったような子供時代でしたので、毎日の遊びの中で育まれた”感覚優先”の物ごとの捉え方が役に立ち、誰よりもK院長の教える施術方法を「再現する」ことが上手だったらしく、通いだして1か月もしないうちに院長からも周囲からも「天才だなぁ」と感心されたものでした。

生徒同士の整体施術の練習方法の一つとして、生徒が交代で施術を受ける側になって、他の生徒が順番にベッドにうつ伏せになった生徒に施術していく練習を良くました。

ベッドにうつ伏せになっている施術を受ける側の生徒は、他のどの生徒が施術をするのかが事前にわからないように顔を上げずに伏せたままで、施術をする生徒も名前を言ったり、声を出したりせずに施術をするのですが、毎回、私の施術では、「これは安井さん」と分かってしまうくらい施術技術が別格だという評価を受けたのを思い出します。

その当時の生徒とは誰とも連絡を取っていないので皆さん、その後はどうしているのでしょうね?

そうこうしているうちに2か月という月日はあっという間に過ぎてしまい、学院では特に決まった学習時間の履修科目、履修時間が設けられておらず、K院長の判断で卒業が可能であったために卒業試験を受けさせてもらって卒業を果たしました。

初めて抱えた責任感

繰り返しになりますが、二人の子どもを抱えた主夫であった私の最大目標は≪早く独立して食べていく≫ことでしたので、 入学から僅か2か月で卒業試験を受けて卒業してしまったのですから、
今思えば、無謀以外の何ものでもありません。

もっとも、2か月の間には毎日乗る電車の手すりや、粘土に石膏を混ぜて筋肉の硬さにした手作りの道具を使った「揉み」「押し」の練習に加えて、自分の腕や脚で「施術を受ける側の感覚」を感じ取るなど、来る日も来る日も夢中になって練習しました。
「施術者の手」と感覚を養う努力は他の生徒の何十倍もしていたはずです。

この努力の背景には、離婚によって生まれた父親としての遅咲きの責任感が有ったのでしょう。
それまで精神的に未熟だった私の、初めての独立がここから始まったと言えます。

昭和生まれの無責任男

昭和30年代に生まれた方は良くご存じの、植木等。
ご本人は勿論、真面目な役者さんだったのでしょうけれど、ヒット映画の「無責任男」のイメージがついて回った人生だったかもしれませんね。
植木等や主演映画をご存じの無い方は、ネット検索で調べてみて下さい。
映画を見る機会がありましたらご覧下さい。

昭和の映画は今となってはタブーな内容ばかりではないでしょうか?
セクハラ、パワハラなどという言葉もなく、寛容な時代といいますか。
私の世代は、緩い部分は非常に緩く、厳しい部分は非常に厳しい時代を経ているので、体罰などが当たり前だった当時を嫌な時代だったと思うこともなく、テレビも自動車も無かった当時が懐かしく良い時代だったと思えてなりません。

それはともかく、私は絵に描いたような”無責任男”で、幼児期の行動を振り返ってみると、多少なりともアスペルガー障害や多動性障害などを抱えていたのかも知れないと思う時があります。

こうした気質といいますか、脳の構造が人間関係の構築を阻害してみたり、結婚生活や育児において無責任であったとか、散漫であったとか、悪影響を及ぼした可能性もあり、婚姻相手の女性の気持ちを考えて自制した行動を取れない自分が居たことは不幸だったと思います。

その後、自分が脳機能に障害があるのかも知れないと感じたのは50代になってからで、医学の世界が脳機能に関して研究や臨床知見の蓄積や診断・検査方法の確立が進んできたことから、それまでは自分の性格として見過ごしていた行動や考え方を少しずつ変えて行くことによって、だいぶ人間性に変化が生じたと思います。

では、現代であれば脳機能に障害があるような人が全員、改善する方向に向かうのかというと、そこにも素直さが必要でして、自分には問題があると受け止めて医療機関を受診し、医師の判断を仰ぎ、指示に従うというプロセスを経る必要があります。

この時点で「私は病気ではない」「私に問題があるのじゃない」「医者の言うとおりに出来ない」という強情さが現れてしまうと、せっかくの医学の進歩も役に立たなくなってしまいます。
それだけでなく、流れ来るチャンスの尻尾、幸運の女神の微笑みも見逃してしまいます。

もっと30年、40年早く、脳機能障害の分野に医学的なメスが入って研究が進んでいたならば、私の人生も大きく変わっていたことでしょう。
私がもし、もっと人生を過ごしやすい人間であって、社会に適合する人間であったならば、会社勤めをして結婚生活も無難に送っていたでしょうから、整体師にはなっていることは無かったはずです。

過去に戻って、何かを変えてしまうと全てが変わってしまう映画のワンシーンのようですね。

私の整体師としての歩みが始まった頃は、自分自身の行動や言動の一つ一つを省みるとか、修正するとかの知識も意識も持ち合わせていませんでしたので、整体師になって子どもたちを育てる決意をしている時点で、人生初の責任感は芽吹き始めていたことに間違いはありません。

然し、まだまだ無責任さを十分に認識できていない、父親らしからぬ父親としての私が健在だったのも間違いなく、船出に例えると、大きな張りぼての船であちらこちらに浸水の危険を抱えながらの船出だったのです。

どのような船であれ、どのような形の船出であれ、航海はスタートしました。

そんな私の人生の行先には、また不思議なことが待ち受けていて、その後の私の施術と人生を根底から変えることになって行きます。

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